世界が崩れた日
朝がくるたびに、今日という美しさに喜びの息をもらした。
あの頃、すべてがキラキラと輝き、新しい刺激に満ちていた。
もう少し大きくなった頃、兄からもらった美しい挿絵の入った本。
はじめて読んだ恋の話に小さな胸は苦しいほど高鳴ったのを今でも覚えている。
そこに出てくる王子様はどれも兄に似ていた。
あたしより大きくて、美しくて、儚いように見えてどこか
時折見せる凜とした表情すべてが完璧で。
いつか父の腰にあった、鞘に収まったままの剣を思いだす。
宝石の散りばめられた美しい宝刀。
その宝刀がいつの日だったか、ふと憂いを帯びた兄の横顔と重ねって見えた。
ああ、きっといつか訪れる大切な人のためだけに抜かれるんだろうか。
そう思うたびにチクリと胸が痛んだ。
あたしの王子様、その美しい瞳が困ったように見つめるのは
あたしだけに許されたものだったはずなのに。
きっと誰かが魔法をかけたんだわ。
いつの間にか曇ってしまった兄の瞳。
美しい輝きは衰えなかったが、あたしを見つめている時でも
どこか遠くを見ているような曇りがあることに気づいたのは
自分のドレスの裾を踏まなくなった頃からだった。
最近の兄の瞳は、とても切なく揺れて
焦っているような、誰かを探しているような
近くにいるはずなのに、どこか遠くを探すその姿に
言い知れぬ恐怖と絶望を感じた。
兄の探す何かになれなかったあたしを許してください神様。
いつかその瞳があたしに戻ってきますように。
ふとした時に気づく、可愛いぬいぐるみの瞳から
光がなくなったのを見て現実に引き戻されるような悲しみ。
あなたの瞳を取り戻すために
あたしは必死にあなたの気を引いて見せた。
名前を呼んで、そでを引いて
唇をとがらせ、いじけてみせて。
あなたがいつか美しいと言ってくれた髪は伸ばし続け
可愛いと言ってくれた足は小さくなってきた靴に押し込んで。
そのどれもが効果はあまりなかったけれど。
少なくとも、あたしはいつかまたあの頃のように
兄の瞳を独占できると息巻いていた。
いつか見た本のお姫様のように
けなげに待ち続けて、毎晩月や星に祈った。
あたしに返してくださいと。
だからこそ、兄から婚約の話を聞かされたとき
頭から冷たい水をかぶったように身体が冷えていくのを感じた。
あたしが大きくなったのがダメなの?
それとも、はじめからあたしではダメだったのだろうか。
そう言いたくて見上げた顔は、とても残酷なほど美しくて
久しぶりに目が合った兄の瞳は、底の見えない闇に包まれていたから。
あたしは、ただ息をつくだけで精一杯だった。
突然の出来事に、当然父や母にも抗議したものの
それもすぐに無駄だと思い知らされた。
兄と同じように両親の瞳もとっくに曇ってしまっていたから。
ひっと息をのんで後ずさる。花の香ですら怪しく部屋中に香っていた。
めまいを覚えながら部屋から出た後、どうやって自室まで戻ったんだろう。
何かがおかしいと幼いあたしですら気づいていた。
けれど、兄や父と母を見ているとあたし一人だけおかしい気もしてくる。
兄はなぜあんな人間界の女を選んだのか?
そうだわ、人間界への苦情ならば霊界に言えばいいじゃない。
こっそりと抜け出したあたしは外へ出ていく霊界タクシーに目をつけて乗り込んだ。
途中で運転手と揉めてしまい、敷地外に出るのに時間がかかってしまったものの
しぶしぶ霊界まで載せてくれるという運転手に安堵した。
人間界で買ったキャラクター付きの腕時計を何度も確認する。
暗くなるまでにこっそり戻らなきゃと腕時計から視線をあげた時
屋敷の方向から大きな爆発音が聞こえた。
………
……
爆発後炎上した車内から這うように抜け出したコエンマの目に
爆風の煙から飛び出した少女の姿がうつった。
「よかった……は無事じゃな」
幸いにも全員が軽傷ですんだことにホッとしたものの
すぐに爆発の真相が分からずにあたりを警戒しながら少女の手をつかむ。
「いつの間に爆薬が……いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない!!
――、早く逃げるぞ!!」
「……でき、ない」
「なっ」
何故だと問う前に、バチっと霊力に押されて後ずさる。
「ふえ…のね……」
「?」
「よん…でる、いか……なきゃ」
少女の様子からただ事じゃないことがうかがえる。
言ってはならんと拘束するように両腕をつかんだが
すぐに大きな霊力に押されて、吹き飛ばされた。
薄れていく視界の中、少女の背中が遠ざかっていく。
待ってくれと手を伸ばしたが、強制的に目の前が真っ暗になり届くことはなかった。
「ねぇ!!起きなさい!!」
どれぐらい意識を失っていたのだろうか。
高い声が真っ白な世界で響く。それが酷く頭に響いた。
左耳にキーンと耳鳴りが残り、男は起き上がれずに顔をしかめる。
体中が痛むし、独特の香りが鼻孔を刺激した。
皮膚のヒリついた痛みでようやく肉が焦げた匂いだと気づく。
痛む頭をなんとか起こして声の方を見れば
開けた視界いっぱいに桃色の綿毛が広がった。
その間も甲高い声は何度も繰り返して問いかけてくる。
次にコエンマが目についたのは、あふれ出しそうな湖の
目が覚めるような碧さ。
「!!――いっ…」
弾かれるように飛び上がった身体が悲鳴をあげ
ぐっと苦痛に顔を歪ませてうずくまる。
「やっと起きた!!死んでるかと焦ったわよ!!」
耳元でキーキー喚くなと言いたかったが
コエンマはそんな気力すらなく顔をしかめるだけだった。
だんだん痛みが強くなってくる。
熱風で喉もやられていたのか、痛みに少しむせた。
「おぬしは確か…」
掠れた声を何とか絞り出して問えば
レティシアよと苦い顔で少女が返した。
その顔は覚えてないのかと非難の色が滲んでいたので
子供をあやすように、コエンマも苦い顔ですまんと呟いた。
何とか青年は身体を起こして当たりを見渡す。
何者かによって車が爆破させられたことを思い出す。
森の中で爆発したので、一歩間違えば山火事だったなと焦りを覚えたが
火薬の量が調整されていたのか、大破した車の周りが少し焦げ付いた程度で済んでいた。
これが森中に飛び火していたら今頃目覚める前に煙にまかれてたなと
顔がひきつる。その間も少女が駄々をこねる子供のように腕をひっぱってきた。
「ねぇ……説明しなさいよ!!
いったいこれはどういうことなの!?」
「おぬっ……レティシア嬢は知らないのか」
腕や足をさすり、折れていないことだけ確認し青年は
グッと痛みをこらえて立ち上がった。
近くで転がっている運転手の無事を確かめて安堵する。
レティシアを追ってきた霊界タクシーに気づいて呼び止める。
運転手は大破した車を見て青ざめた顔でハンドルを握りしめていた。
「レティシア様……こっこれはいったい」
「話は後よ!!今はアタシ達を霊界まで連れて行きなさい!!」
コエンマの制止する声を無視し、少女が高らかに宣言すれば
運転席の男もビクつきながら急発進させた。
………
……
「どういうつもりじゃレティシア嬢!!
おぬしまで霊界に来る必要は……」
「あるわよ!!だって人間への苦情で来たんだから」
人間……で思いつくのはと蔵馬だが
少女が言っているのは恐らく前者だろう。
「あいつがお兄様に何かしたんだわ!!」